「平凡」な一日の終わりに
「さっさとしろよー。このくらいの作業。他のクラスはとっくに終わってんだぜ。」 委員長は怒っていた。 今日は、泣く子もだまる文化祭の、その前日なのである。しかも、時刻は七時も半を過ぎようとしていた。 それなのに準備のおわる気配は一向に漂ってこない。教室にいるはずの人間は半分ほどは行方知れずになっている。――これでは怒るのもしかたがないといえばしかがない。 だが、居ないほうにもそれなりの理由はある。 準備のおわる気配は一向に漂ってこないのは、準備が進むにしたがって「やらなければならないこと」がどんどん増えてくるからだし、居るはずの人間が居ないのは、今が中学三年の秋――受験に向けてまっしぐらに突き進んでいるはずの時期だからというのもある。 その上、担任の先生は――こんな日だというのに――「出張」で出払っていた。
そもそも、クラスの半分以上は良くも悪くも『お客さま』なのである。 「委員長しっかりしろよ!」などと野次ばかりは飛ぶのだが、しかし、そう叫ぶやつに限って、手のほうはちっとも動いてないものなのだ。 もっとも、そんな野次が飛んでいたところで、ほんとうに委員長までがだらけているわけではない。 「石本、君津、おまえら何もしてないんなら、技術の作品並べるの手伝ってやってくれ。香月、そこの暗幕、たるみきってるぞ、もうちょっと伸ばして張ってくれよ。」 彼は彼で、矢継ぎ早に報われない指示を出しつづけてはいるのだ。 じゃあ委員長に人望がないのかリーダーシップがないのかということになるのだろうが、やっぱりそれも違う。 そう。所詮、こんなすばらしい環境では、誰がやっても変わりはないのだ。 「木下、そこの段ボール会議室へ持ってってくれ。」 ここ、市立御所野台中学校は、美術や技術、書道といったもののクラス展示のほかに、クラス単位で模擬店までやってしまうという、必要以上に学園祭の盛んな学校だ。 なにしろ、歴代の校長、生徒会長の面々がお祭り好きだからというよりも、「お祭り好きでなければここの校長や生徒会役員になれない」という噂話のほうが真実味を帯びているほどなのだから大したものだ。――そのおかげで、ただでさえ大変なはずの準備が大変どころではなくなってしまったのだから、笑い事なんかですまされるはずがない。とは思っているのだが―― ちなみに三年のこのクラスでは、展示を自分の教室で、店を会議室でやることになっているのだが、はたして明日の朝までにまにあうのだろうか。実に頭の痛むところなのだ。 「ああ。いいけど、どっちを持っていくんだ?」 それはそうと、この俺、木下俊輔は二つの巨大な段ボールを前に固まっていた。 調理用の鍋が、どういうワケか教室にきているのだ。それも、一個や二個ではない。二十五と三十六型のテレビの箱に底が抜けそうなほどたんまりとなのだ。 「両方!」 おいおい、無茶をいうなよ〜。 「両方って、こんなに中はいってるぜ。」 俺は、「泣きそうな目」で委員長をふりかえった。 「じゃあ二回に分けていけ!」 もう一時間ほど前――俺たちのクラスが最後だと確定したときから、委員長はずっとこの調子なのだ。もう、まるっきりやけになっていて、指示する内容が荒っぽいのなんのって。 ああ、もう、前言撤回。これは、みんなに気合いが入らないのもしかたがない。 時間が経つにつれ、なんともいえないヒステリックな時空にのめりこんでいく彼が委員長。 ことあるごと怒鳴りつけられるような状況でやる気を出せというほうが間違っている。 「木下。私も手伝うよ。」 疲れたような、それでも、どこか温かい声。 ああ、滝野がきてくれたんだ。 俺は――はた目からはだいぶん引きつっているように見えたろうが―― 「ありがと」 と、わらった。 でも、確かにありがたいんだけど、あんまり無理もさせられない。例にもれず、彼女の顔にもかなりの疲労がうかがえた。 なんたってやっぱり、女の子だもんな。 コリャ、二、三回に分けてくしかないか。 俺は、ふう、と大きく息を吐いた。 「こっちのほう、一緒に持ってくれる?」 「うん。」 このすさんだクラスの中で、滝野真季の存在はとても温かいものだった。 その彼女の表情になんとなく気が軽くなった俺は――なんとなくから元気めいているようで――彼女に、明るく 「がんばろ」 といって微笑みかえした。 ――でも、いったい誰がもってきたんだろ。この鍋。 ふと見やると、滝野の顔に途方もない疲労が浮かんでいるように思えた。
会議室は会議室のほうで、悲惨をきわめていた。 おかげで、「温厚な」副委員長、神井麻由美までもがキレていた。 委員長同様、やる気のない部下たちに囲まれあたまにきていたところに、調理道具が一式、行方知れずなんだから仕方がない。 まあ、もっとも、俺たちがその行方知れずだった道具をもっていったところで事態が好転するはずはなかった。――いや、それどころか、「中身の入った段ボール」の山を成長させるだけなんだ。 「だから藤井くん、そのテーブルはそこじゃないのっ!」 「もう、ちゃんと配置図見てよ!」 怒鳴りつづける神井に、そっと滝野が近よる。 「大変そうね、麻由美。」 「もう、まったく。」 かなり疲れの浮かんだ声で、彼女は寂しげに笑った。 「教室のほうはどうなの?」 「さっぱりよ。」 滝野は深く溜め息をついた。 「わたしもがんばってるつもりなんだけど、こうも実働が少なくっちゃね。」 「まったくもう。今年はどうして、こう中途半端な人ばっかり集まっちゃったのかしら。」 神井も一緒に溜め息をつく。こうもだらけた連中をまとめていると、吐き出したいぐちもたまるものらしい。 「だいたい先生からして、こんな大事な日に出張だなんて…」 「うんうん。あの先生って、なんか、クラスの行事とかに無関心なのよね」 は〜あ 二人は向き合って、また一緒に大きな溜め息をついた。 「あ。ねえ、それよりもさ。」 「ん?」 「なにか、教室のほうに持っていくものない?」 「お、おい」 何をいい出すんだこのねーちゃん。 俺はなんとか自分の存在をアピールしようとしたが、ちらっとも省みようとしてくれない。どんどん話を進めてしまう。 「うーん。今のところ、全然整理ができてないからねぇ。」 「あ、そうそう。あの辺のダンボール、ゴミが入ってるんだけど、まるごと捨ててきてくれない?」 「いいよ。」 滝野の《素直》な返事に、俺はもう頭を抱えてしゃがみこんでしまった。 まったく、あの重い調理具持って、あと二回は往復しなけれゃならないってのに…。 「ごめん。そっちでも何かあったら、いつでも呼んでね。」 「うん」 まったく俺の意思はどうなるんだ… 俺はふかぶかと溜め息をついた。 「木下は、そっちの段ボール持ってってくれない?」 もちろん滝野は、さも俺が手伝うのは当然だとでもいうように声をかけてくる。 「わかったよ。」 なんか、滝野を一瞬でも「優しい」と思ってしまった自分が情けない。 ほんと、こいつはこういうやつなんだよ。もう。 俺は、しぶしぶと、生臭い段ボール箱を抱え上げた。
ごみ捨て場。昔だったら、燃えるものと燃えないものを分けるくらいでよかったかもしれないが、近年の環境ブームのおかげで、新聞、牛乳パックはもちろん、プラスチックにスチールなどと、とことん分別しなければならない。 まあ、それは確かに、環境にとってはいいことなのかもしれないが、今の俺たちには「環境なんかくそ食らえ」という気分にさせる以上の何者でもなかった。 だいたい、心優しい我がクラスメート諸君が、しっかりとゴミ袋ごとに分けてくれるはずもないのだ。空き缶から、ペットボトル、しまいには魚の骨まで、ひとつの袋にこれでもかとまで詰め込んでくれている。 「なにをやってんだ…、これは。」 「明後日の朝までにおわるのかしら…。」 さっきまで、まだはりきろうとしていた滝野も、さすがにこの惨状には顔を曇らせる。 「まっ、しかたがないから、やっちゃいましょ。」 少しの間のあと、彼女はあきらめたようにそういった。なんのかんのいっても、こういうことでの彼女のきまじめさは本物なのだ。 「どうせ、やっちゃわなきゃいけないことなんだから。」 つけくわえた一言はどうしても、自分を励ますかのように聞こえてならなかった。
そして、大地は揺れた。
1
その朝、少女はいつもよりはやく目が覚めた。 そして、おきたままのぼおっとした頭で、いつもと同じように外へと出ていった。 朝起きたら、まずいちばんに新聞を取りに行く。それが彼女の日課なのだ。 しかし、仮にも「うら若き乙女」である彼女だというのに、朝っぱらから「おきたまま」で表に出られるものなのだろうか。 なに、別に心配するようなことではない。 時刻はまだ、午前四時にもなっていないのだ。しかも、辺りに街灯はない。 わざわざ赤外線カメラでも持ってこなければ、誰も自分の姿を捉えることはできないだろう。彼女はそうタカをくくっていたし、事実、この習慣が身についてから、彼女のはずかしい姿が街の話題にのぼるようなこともなかったのである。 彼女は眠い目をこすりながら、郵便受けへと慎重に足を運んだ。 この場合、人から見えないということは自分にも周りが見えないのだ。お世辞にも運動神経に優れているとはいえない彼女は、前にもここですっ転んで怪我をした。それ以来、一歩足を踏み出すこの瞬間の緊張は、彼女の平凡な日常にちょっとしたスパイスを効かせているのだ。 もちろん彼女は、玄関に明かりをつけて取りに行くというのを考えなかったわけではない。 しかし、本人そこまでの勇気――彼女にとっては「蛮勇」以外の何モノでもなかったが――を持ち合わせてはいなかった。 実際のところ、――よく「謎の大物」が出てくるシーンにつかわれるように――暗闇の中で逆光にするというのは物を見えなくさせるのになかなか適した状況なのだが、彼女は気分的な問題でそれを却下していた。それに、今の自分の格好は、たとえぼんやりとだけでも、たとえ輪郭だけであっても見せるのは嫌だった。 それもそうだろう。あなたも今の彼女の姿を見ればきっと納得するはずだ。 寝乱れ、ボタンが二、三個外れた薄手のパジャマに、学校指定のジャージ。その上から秋物のジャンパーと格子柄の黒いどてらを重ね、足元は、安物のスリッパでかためている。 ふだん肩のあたりでそろえられているはずの後髪は、寝癖のために、まるでこすった下敷きをかざしているかのようだ。反対に、ヘアバンドを外した前髪は、ばっさりと前に落ち、顔のほとんど覆い隠す。そして時折、ねむたげな吐息に、ふわっと宙を躍るのだ。 彼女はその姿でコタツに足をつっこむのが好きだった。焼いたみかんでもあればもう最高。その日一日は幸せな気分で過ごせるものだ。 そもそも、彼女が朝型になったのは、二年ほど前、両親が長い「旅行」に出かけてからのことだった。 彼女にもよくわからないことなのだが、その二年前のとある日から、ふと朝型になってしまったのである。 今のところ、彼女はこのスタイルで生活しているほうが、学校にいるとき妙に気分がいいので別にやめたいと切実に願っているわけでもなかった。そして彼女の中では、もうすでに「普通の生活への想い」というのは過去のものになっていた。 なぜなら、彼女がその習慣についてどんなことを思おうとも、毎朝四時になる頃には目がかってに覚めてしまうのだ。また、たとえ元の習慣に戻そうといくら遅くまで起きていても、毎朝四時ごろになると勝手に目が覚めてしまうのである。これではあきらめもしよう。 しかし、銭湯の血圧計の前でどれだけ頑張っていようとも、それは高い値を示すことはないのである。むしろ低血圧を示す表示がしつこいくらいに繰り返されるのである。 そう。だいたい、彼女だって朝はねむたいし、ふとんからは出たくないものだ。ただ目が覚める時間が少しばかり早いだけ――たぶんそういう体質なのだ。いつしか、彼女は勝手にそう納得するようになっていたものである。 そして、彼女は、その、寝起きのぼおっとした頭でゆらゆらと新聞受けのふたを開けた。微かにインクの香りが漂う。いつもよりだいぶはやかったのに、そいつは、ちゃんと箱の中で待っていた。 彼女はその瞬間も好きだった。 新聞を手に取り、大きく伸びをする。朝のひんやりとした空気が身体いっぱいに流れ込む。 彼女は、両親が「旅行」に出ているからといっても、一人暮しの老人が陥るような「文明的とは程遠い生活」からは一線を画していた。むろん、それは毎月、なんとか「普通」に暮らしていけるだけのお金はちゃんと振り込まれているからである。 両親はもともと「旅行」がちだったので、彼女は、月々の生活費さえきちんと振り込まれてさえいれば、いつしか 「ああ二人は元気でやってるんだな。」 と、一人で納得するようになっていた。 しかし、二年も顔を合わせないとさすがに心配にはなってくる。 両親はとっくにこの世から去っているんじゃないのかな。そして、それを哀れんだどこかのやさしいお金持ちが、このお金を振り込んでくれているのかも… 最近、銀行のCDをまえにすると、ふと手をとめ、胸をおさえてしまうのだ。 彼女は鍵をしめ、リビングにむかった。双子の兄はあと四時間しても起きてこないだろう。この時間、家は彼女一人のものである。 こたつのいつもの場所にもぐりこみ、スイッチを入れる。まだぬくもりの残るこのコタツの中で、あと数分も震えていればそのうち頭もさえてくるだろう。 そんなときにはいつも思う。 「お兄ちゃんも、あれはあれで生活時間帯がずれてるのよね。」 双子の兄は、どうやら彼女と反対の時間で生きているようなのだ。すくなくとも、朝――彼にとっての真夜中――に関しては、完全に入れ違いだった。 でも、少女には、それが自分と同じように体質的なものなのか、普通の若者と同じようにただ習慣になってしまったのかは判らなかった。「でもよく考えてみれば、それってどうでもいいことなのよね」 彼女はぼそりとつぶやいた。 「わたしが毎朝、お兄ちゃんをたたき起こさなきゃなんないってことに変わりはないんだもの。」 生活時間帯から外れていることなので、彼女は知るよしもないのだが、睡眠のリズムが狂うというのは立派な病気である。 だが、そんな事実を知ってしまったとしても、彼女があきらめてこの状況に満足しようとすることは決してないだろう。 この兄妹の生活をなんとか重ねられないものなのだろうか。 彼女は、そのことで常々頭を悩ませているのだ。 いくら生活費が振り込まれているといっても、限りというものはある。この家の場合、二人しか暮らしてない割に、学校に行ってる時間以外は、ずっと光熱費を増やしつづけているのだ。最近のエコ=ブームと逆行するこのムダを何とかできないものか。財布と自然にやさしい、ささやかな改革を起こさなければならない岐点に立っていることを、彼女は自覚せざるを得なかった。 ここ数年、政府の「金融政策」とやらのおかげで、彼女は致命的な被害をこうむっていた。 そう、普通預金ではふえないのである。 ましてや彼女が、それでも零コンマの世界である定期預金に加入できるほどの余裕を持ち合わせているはずもない。 小学校の四年あたりからもう五年にもなろうかというその長い期間、家の家計を一手に握ってきた彼女からすれば絶望に近いものがある。 年度の初めには必ず入っていた、その千数百円というささやかな、そして、彼女にとってはかぎりなく重大な収入までも削られて、どうやって「健康で文化的な生活」を送っていけばいいのか。野菜の値段が高騰したときなどは、もう目の前が真っ暗になってしまう。 さすがに中学三年の身で、サラ金には走れない。もちろん彼女もそのくらいの理性は持ち合わせている。でも、かといって、このちっぽけな二階建てのわが家――両親の家――を勝手に売るわけにもいかないのだ。 こうなったら、今通ってる中高一貫の私学を辞めちゃうかな。 ときどきそう思うこともあるのだが、今さら受験勉強をしたところで公立校に入れるだろうかという不安がいつも彼女を押しとどめていた。 もっとも――彼女はいつも、そこまで考えたところである現実に気付くのだ――今の彼女は、どちらにするにしても親の許しが必要であるということに。 そんなとき、彼女は自分の幼さにさいなまれる。そして、勇気のなさにも。 そう、今の、ある程度健康である程度文化的な生活をやめさえすれば、もっと楽になるのよ。 この、コタツの上にたたまれた新聞も、いや、そもそもコタツ自体をなくしてしまえば、ブランド品片手に、最近流行りのコギャルみたいなバカな真似もできるじゃない… 彼女は深く溜め息をつき、コタツの上に突っ伏した。 「にあわないなー」 コタツ板に写る自分の姿に、彼女は苦笑した。 結局、今みたいにコタツにはいって焼きミカン食べるような、安穏とした日常のほうがわたしなのよね。 彼女は垂れた前髪をかきあげ、新聞を引き寄せた。 まず、数あるチラシの中から、スーパーのを分けて特価品をチェックする。 わたしって案外、いいお嫁さんになれるのかな? そんなことを考えている自分に、彼女は思わず吹き出した。 「わたしったら、なに考えてんだろ。」 と、彼女の目のかたすみに、ほかよりも一回りくらい大きな字が飛びこんでくる。 「あ、二割り引き?…この牛乳ね」 アブナイアブナイ。自分の世界に入って、特価品を逃すとこだった。彼女は辺りをぐるっと眺めたが、めずらしくペンは落ちていなかった。 彼女は立ち上がって、テレビの上のペンたてからマーカーを一本抜きとって、チラシにぐるりとしるしをつけた。 「しっかし、二人暮しの相手がお兄ちゃんなんて、色気も何もあったもんじゃないわね」 幸いなことに、その兄にしても同じことを考えていたので、今まで二人は健全にやってこれているのだ。 これで、実はいとこだったり、血がつながってなかったりなんかいって、その――『何か』みたいな展開になったら、わたしたちはいったいどうなっちゃうんだろう。 彼女はじぶんの想像にぶるっと震えた。 ……あ、でも、それはそれで面白いかも。 こんなこと考えるところ、わたしってヘンな人なんだよね。彼女はチラシの山をわきにどけ、新聞をパサッと開いた。 彼女は普通、いちばん最後のテレビ欄からさかのぼっていく。小さかった頃、テレビ欄を楽しみにしていた頃の名残だろうか。 まず、「今日の番組」欄をよむ。これは、それだけでもなかなか面白い。学校でドラマの話題が出たときもなんとかついていける。 それに、そもそも彼女はテレビドラマを見て楽しむという趣味を持ち合わせていなかった。彼女自身の見解では、テレビでやっているような視聴率重視のドラマは到底小説にかなわないということになっているのだ。最近の商業主義の出版にも彼女はいい感情を持ち合わせていなかったが、それでも、テレビよりは秀でていると思っていた。 そう、彼女は生粋の――そして狂信的な――文学少女であった。 本人、自分の文才のなさを常々自覚していたので、そう人のことをいうものじゃないなと思ってはいたのだが、そんな固定観念丸出しの格付けだけはやめることができないでいた――いわゆる「食わず嫌い」という奴なのである。 そして、「今日の番組」欄がおわったら、いよいよ番組表だ。ワイドショーの話題に目を通して、次は、夕方の番組をチェックする。 それでおしまい。 そう、彼女は毎晩八時に床に入る。それ以降のものは見ないし、見たくもないのだ。――むろん、彼女の家にビデオなどという文明の利器があろうはずもない。 それがドラマ嫌いの一端なのかなと、彼女は時々思うことがある。 そして、一枚めくっていよいよ社会面だ。前の晩七時ごろは、ふつう夕食をとっている。それがおわれば、片付けと風呂だ。家事全般を二人の共同作業にしているといっても、とてもニュースを見ている暇なんてありはしない。 学校から帰って彼女が眠るまでの四時間は兄妹二人そろう数少ない時間なのだ。すべての家事はそこでやってしまうし、兄妹としてのコミュニケーションというものがある。こんなに時間帯が違うとはいえ、二人はとても仲がいいのだ――すくなくとも彼女はそう思っている。 そんなものだから、彼女はこの一人の時間に情報に飢えた頭を満たしてやるのだ。 だが、社会面というのは、どうもいちばんはじめに読むには適していない。一面記事の詳細や、余談などがメインを占めるため、題字を見ただけでは、事件の内容がよく解からないのだ。この日もちょうどそうだった。 「謎の木・不気味に揺らぐ」 「学者、首をひねる」 「生徒の行方、いまだつかめず」 スポットライトに照らし出された大きな木の写真に添えて、そんな見出しが並んでいるのだ。紙面の使い方からして、どうやらひとつの事件のようなのだが、どうもうまくまとまらない。このようなとき彼女は、慣れたもので、パサッと閉じてひっくり返し、一面のトップを見るのだ。 「中学生三十一人行方不明」 政治や経済を差し置いて、一面はすべてその記事で覆い尽くされていた。 そりゃそうよね。こんなことがあるなんて、ただ事じゃないもの。 彼女はどこか平然として、読み始めようとはじめの一文に目を移した。 そう、なんだかんだいっても他人事なのだ。第三者の手でいったん噛み砕かれてしまった事件に感情移入ができるはずもない。知識ではものすごく酷いことであるとわかってはいても、感情がついていかない。どこか冷めているのだ。 とはいえそれは記者のせいじゃない。 彼女は彼らの仕事にわずかの理解を持っていた。 結局のところ、新聞は新聞なのだ。記者は物事をどこまでも客観的に捉えなければならない。そこがノンフィクションとは違う、「報道」というものなのだ。 そして、客観的に描けば描くほど、記事は無機質なものになっていく。 たとえば… 彼女は一昨日くらいに起こったある事件に思いを馳せる。 「濃霧で着陸失敗。死者十人・邦人乗客は無事」という一言のなかに、どれだけの人々の、どれだけの感情が詰まっているのだろう。 でもそんなとき、彼女には、 なんだ、十人か と思ってしまう瞬間があった。 はたして、日常のなかで「十」という数字は、どれだけの重みを持って受け止められるのだろうか。 はたして、まえとあとに、「死者」と「人」がついたくらいで、そのイメージが拭い去れるのだろうか。 それが『文字』の限界なのだろうか、それが貧困なわたしの『想像力』の限界なのだろうか。 彼女は後者であることを願わずにいられなかった。 だが、あまつさえ、邦人乗客は無事という言葉に、ほっと胸をなでおろしてしまうのだ。 こういうのが島国根性なのだろうか。 そんなとき彼女はいつも、どうしようもなく寂しくなってしまう。 そう、わたしにとってそれは完全に「他人事」なことなのね。 そう、すべては遠く離れた、そう、あらゆる意味で遠く離れたことなのよね。 そんなとき、ふと心によぎる一言がある。 「それで、本当にいいのだろうか。」 彼女のこころは、そんな、ほんの些細な一言に乱されるのだ。 いいはずなんてないじゃない。 そう、彼女は「いいはずなんてない」ことを知っていた。 でも同時に、どうやったら、あの「素直な」感想が出てこなくなるのだろう。どうやったら、そんな「他人」の悲しみを理解できるのだろう。そんな疑問が、頭の中を渦巻くのだ。 そして、いつも、最善で、そして最悪である方法によって、こころの葛藤は破られてしまうものなのだ。 そんな「遠く離」れたことにまで、いちいち気を回していたら、とてもこの世の中なんて生きていけないじゃない。 そう、だいたい、こんなに「情報化が進んだ世の中」では、地球上でおこったすべての悲報がわたしのもとに流れ込んでくるのよ。 ――でも、悲しまないでいられるのはかんたん。 なれてしまえばいい。 それが嫌なら、そんな悲しみをもたらす「情報」なんて、受け取らなければいい。 彼女はそんな自分が悲しかった。 そして、彼女は新聞を投げ出し、パタンと身体を投げ出した。おおきくて、ふかふかのクッションが彼女をやさしく受け止める。彼女は目をつぶり大きく息を吐いた。 そして、かたわらの、昨日の晩に放り出しておいたお気に入りの本をとりあげる。 機械的にしおりを開き、彼女は文字の世界に身を預けた。 甘酸っぱい恋の世界、胸躍らせる冒険世界。 でも、どんなにページをめくってみても、彼女のこころはある一文の支配から逃れることができないでいた。
「御所の台中学、消失。」
その、一文からは
2
「う〜。ぐ〜」 彼女は左手で、ぼさぼさの頭をわしわしと掻いた。 結局、いくら本に集中しようとしたところで、その「引っかかり」が拭い去られることはなかったのである。 「…御所の台中学校」 彼女はしかたなく本を閉じ、天井の灯りを見上げた。 「そう、どこかで聞いたような名前なのよね…」 放り出された新聞をとりあげ、あわただしく目を通す。 「え〜と、瓶子県下戸市にある?」 彼女はあっといって自分の部屋にかけ上った。 もしかしたら、今まで想像もしなかったようなことが、現実に起こってしまったのかもしれない。 彼女の心はゆれていた。 わたしが安穏と暮らしていたあの瞬間に、わたしの中の「なにか」を大きく変えてしまうほどの「なにか」が起こっていたのかもしれない。 彼女の心は、あらゆるすべてを巻き起こして、今までに経験したことのない感情であふれかえっていた。
言葉にできない感情。
普段から、たいていのことには動じないと思っていた自分の心が、整然として、乱されることのなかった感情が溶け合って、彼女の身体を支配していた。 息せき切ってドアをはね開ける。 そして彼女は、無造作に転がっていたかばんをひっくり返し、転がり出てきた愛用の赤い手帳をがばっとしてひったくった。 「た・た・た・た」 アドレスのページをめくって目当てのページをさがす。 まめな彼女の手帳は、何十ページにもわたってこまかい文字でみっちりと埋められている。でも、今はそんな自分がもどかしい。 「た、滝野!」 「あったあっ!滝野真季」 「瓶子県下戸市中央区外嶋一の二の八!」 そして、彼女の目は、ある一行にとまった。
「…市立御所の台中学校、在学…中」
彼女はいらいらしていた。 そもそも時刻は、やっと五時になったくらいなのだ。滝野真季――いとこのうちに電話しようにも、まだ早すぎる。 ましてや、兄をたたき起こしてこのことを聞かそうにも、ついさっき寝たばかりなんだから、今後の兄妹関係に重大な影を投げかけそうで――すくなくとも血のひとつやふたつくらい見るような気がしてはばかられた。 でも、こんなことは早く吐き出してしまいたい。 どうだったのと聞くのでもいい。こんなことがあったんだよって教えるのでもいい。 ひとりなにもできないでいる自分。彼女はそんな自分が、もどかしかった。総毛立つその身体は、血のにじむほどまでかきむしったくらいではどうしようもないほどに思われた。 「おちつけ。おちつけわたし!」 「今のわたしがどんなにいらだってたってしょうがないんだから。」 「事件はもう起こっちゃってるんだし、多少時間がたったって事態はそう変わらないもの。――こんなこと事件なんだから。」 とはいえ、頭で、そうなのだということを「わかってい」たとしても、そう簡単に彼女を襲う動悸があきらめてくれるはずもなかった。彼女の心に咲いている見渡すかぎりの感情たちは、まだ色あせるということを知らなかったのだ。 彼女は、そっと階下におりた。 そして、洗面所、鏡の中の自分と向かいあう。 「だめ…だな、あたしって」 彼女はおもいきって蛇口をひねり、その下に頭を伏せた。 水が、頬からそして髪の先から流れ落ちていく。近頃、とみに冷たくなってきたそれは彼女の心から多すぎた熱を奪っていく。 そして排水口から流れ去る熱を見つめながら、それでもまだ、心は熱いと感じた。 「やめよう。もったいない」 彼女は髪から垂れる雫のあいまから、鏡にうつった自分を見つめていた。 『そのときほど時間が遅く感じられたことなんてなかった。』 もし彼女がそのときのことを書き記すことがあるのなら、きっとそう綴ることだろう。 それほどまでに彼女の心のざわめきは大きかったし、自分がそうあることに慣れてもいなかった。 彼女はのそのそとバスタオルで頭を拭き、そして、濡れそぼった髪を、かたすみに引っかかった思いを引きずりながら、ながながと整えつづけた。 なにしてるんだろう、わたし 町の静けさはいつもと変わらない。 家の中だって、わたし以外はいつもと変わりはしないのに。
◇ ◇
すべてが、かわってしまった
3
その朝、兄――滝野洋平は、いつもより遅くに目が覚めた。 ただ、彼にしてみればそんなことはどうでもいいことだった。 快適なのである。 このところの陰鬱とした日々が突然終わりを告げた。 そんな晴れ晴れとした気分で、ふとんにくるまっていた。 なんだか、そう、とてもシアワセなのだ。 うふふふふと含み笑いをしながら、――信じられないことに――彼は自分からふとんを抜け出した。 すみれが見たら、さぞかし不気味に思うんだろうな。 そんなことを考えながら、いそいそと仕度をはじめる。 なんだか妙に気分がいい。 そんな自分にほのかな疑問を抱きつつも、彼はのんびりとその日の準備を済ませていた。 でも、なんで、今日はこんなに頭がすっきりしているんだろう。 彼はふと、壁の時計に目をやった。
十時半
なるほど。 彼は、うんうんと妙に納得して、風邪をひくことにした。 わざわざ十時半から学校に行きたいと思うようなまじめな人間ではない。 そんなじぶんをちょっといいな〜っと思いつつ、彼はいそいそとし た階下へおりていった。 さすがにおなかがすいたようなのである。
◇ ◇
ぴんぽ〜ん。 どこか間の抜けたチャイムが鳴って洋平はしかたなく立ち上がった。 時間はもう夕方――六時である。 学校のやつらだったら、いちおう風邪ひいたフリするべきなんだろうな。 そんなことを考えながら洋平はゆっくりと玄関のドアを開けた。 「はい……」 門のむこうに人が立っているのが見えた。 ――教生かな? ちょうどそれくらいの年齢に見える ひ と女性。 少なくとも、彼の学校にはこのくらいの先生はいない。 肩の下まですらりと伸ばした黒髪に、白のワンピース。大きめの旅行かばんをさげ、彼女はそこにたたずんでいた。 ――知らないひと女性。 そういえば教育実習生はこの間帰っていったっけ。 彼はようやく思い起こした。 「あ、はじめまして」 不審に思ったのが顔に出たのか、彼女はにっこりと微笑んでお辞儀をした。 「ど、どちらさまです?」 「な、仲山晴美と申します」 彼女――仲山はおずおずとそう答えた。 「ど、どうも」 この人、何だか、すごく緊張している。洋平はそんな気がして、もう一度彼女を見つめた。 「あの、お父さんかお母さんは、お家にいらっしゃいますか?」 「いえ、ちょっと出かけておりまして」 兄妹は、両親を訪ねるものがあったとき、いつもそう応えることにしていた。 公然と本当のこと――両親がいないということをいい回っていると、こんな世の中ナニがやってくるかわからない。なんとウワサされるかわからないのだ。 「そうですか」 彼女はみるからに落胆した様子で、息をついた。 「あ、あの……なんのご用でしょう?」 「ええ、そう……お父さんとお母さんにお話が」 「や、やっぱり先生ですか?」 あせったのは洋平。何かまたあるんじゃないだろうかとおどおどしながら女性を見上げる。 「今は…」 こたえる彼女のほうはいくぶんふし目がちになる。 でも、その声はそれまでよりいくぶん重苦しさが和らいだような、そんな気がした。 「今は、ちがいます」 「今は?」 「ええ。むかし、先生をしてたのよ」 「むかし……ね」 そういってにっこり笑った。 「でも、きみも、こんな時間に家にいるって、部活とかやってないの?」 「それとも、今日はお休みしたのかな?」 洋平はドキッとした。 サボりのことが出たからだろうか、突然の明るい雰囲気のせいだろうか。 わからないけど、ドキッとしたことだけは確かだった。 「図星……かな?」 「か、風邪ですよ」 「ふ〜ん。ま、ともかく、ご両親はいつ戻られますか?」 「いえ、それがはっきりしてなくて」 「あしたには?」 「それも……」 「そうですか……では、また後ほど、改めてお伺いさせていただきます」 「は、はあ」 彼女はていねいに頭を下げ、何だかよくわかっていない彼に背を向けて歩き出した。 「あ、あの、なにか、伝えることは?」 「あ、ええ、そうね。もしお帰りになったら、コウインから参った仲山だとお伝えください」 「は?」 「そう伝えていただければわかりますから」 「それでは……」 もう一度頭を下げて背を向けたその目の前に、一人の少女が立っていた。 「あの……こんにちは」 「あ、おお、すみれ」 洋平はほっとして、彼女――妹のすみれを呼んだ。 「こちらは?」 彼のもとに歩みながら、彼女は不信そうに仲山を眺めた。 「あ、はじめまして、仲山ともうします」 「どうも、はじまして。滝野すみれです。」 「どちらさま?」 「さ、さあ?親父らにあいにきたらしいけど」 「ふうん」 「(こまったわねぇ、どうするのよ)」 すみれは声を低くして兄にささやいた。 「(しらねぇよ、おれだって)」 「あの〜、」 そんな二人に仲山はおそるおそる声をかけた。 「伝言、よろしくお願いしますね……」
まったくメイワクな話だ。 洋平は思った。 だいたい、なんで親のめんどうまで俺たちが見なきゃならないのか。 そもそも、二親ともそろっていて、特に不和にもしていないというのに――どころか、ベタベタなのである――「お父さんかお母さん、いつ帰るの?」とか「どちらへ?」といった質問に答えられないのが、問題でなくしてなんであろう。 そして、二人はぼおっと顔をつき合わせていた。 食事の用意もしないで、こたつに向い合わせなのである。 もちろん二人がみつめあっているわけもなく、お互いがたまたま前にいたという感じ。 とにかくつかれているのである。 「こんなとき親がいないとつくづく苦労するわねぇ」 「しかも、親を訪ねられた日にャあねぇ」 「こまったもんだ」 二人はもう一回ふかぶかとため息を吐いた。 「何してんのかね〜、あの人たちも」 「ほんとに」 「どうせ、何だか怪しげな仕事なんだろうけどさ」 「ここまで何もいわずに出てたらね〜。あたしらも子供じゃないんだから」 「子供じゃないからほおってでてるのか?」 「う〜ん、子供じゃないからほおってでてるって言ってほしいんだけどねぇ」 「あれじゃ、それもあやしいか」 二人が小学生の頃から、すでにちょくちょくいないのである。 「うん」 「自分らのこと聞かれたときのあの動揺ってのはないぜ」 「かくせないもの、あの人たち。顔にでるから」 「だから帰ってこないのか?」 「何を子供に隠すのよ、そんなアブナイことやってるわけ?」 「なら、俺たちも狙われるかもな」 「なんでよ」 「よくあるじゃん、子供の命が惜しくば……」 「それ、テレビの見過ぎ」 「いまどきテレビでもそんなのやらないぜ」 「そうかもね」 はあ。 思い起こせば、いったいどれだけこんな会話が繰り返されてきたのだろう。 ――あの頃から、 どこまでも不毛な会話。 洋平はため息をついた。
ぐうぅ
「……お兄ちゃん」 すみれが頭を抱えて突っ伏した。 「この真剣なときに」 「やめたやめた。真剣ったってな〜、答なんて出るわけないんだ。飯にしようぜ」 「そうだけど、この一大事に」 「どこが一大事なんだ」 「親が何やってるのか、それがわかるかもしれないでしょ。親訪ねてきたのよ、あの人」 「それにしたら、おまえ、あんまりあっさりだったんじゃねぇか」 「思いつかなかったのよ、あのときは」 「意味ね〜」 「うるさい」 すみれはダンと立ち上がり、きっぱりといった。 「さっ、ご飯にしましょ」 そして、結局、いつものように夕食の準備がが始まるのである。
4
「はあ〜、しかしな〜、お前ももう何年も飯作ってんだろ。もうちょとましなものができんかね〜」 洋平は味噌汁をすすりながらしみじみと口にした。 「うるさいわね〜。だったら自分で作ればいいでしょ〜!」 「交替で家事をやるってのは、昔っからだろ〜。だったらちょっとぐらい努力の跡でも見せろよ」 そもそも、この兄妹、兄のほうが料理が上手い。それがすみれにしてみればむかつくところなのである。 なにしろ、日頃の兄ときたら、がさつというか、いいかげんというか、ぐうたらしているというか。そんな兄なのだが、料理に関しては妹に勝ち目はなかった。 「あ〜、もう、なんでこんなお兄ちゃんが、料理上手いかね〜」 「ふっ、なんにつけ器用なこの俺にできぬことなどないわ」 「だったら毎日自分で作ればいいでしょ〜!」 「お〜、いいぜ。かわりに毎日なんかやるってなら考えないでもないけどな。もちろん、おいしい食事と引き換えだから、三つくらいはほしいよな〜」 「あたしだってずっと洗濯やってんじゃない」 「おめーがいやがるからしょうがないだろ。自分の下着は自分で洗うってきかね〜から」 「あたりまえじゃない。なにが悲しくて、あたしのかわゆい下着ちゃんをお兄ちゃんの魔の手にゆだねなきゃなんないのよ」 「な〜にが魔の手だ。おめーのなんて見たってちっともおもしろかないわ」 「とにかく、それはだめったらだめです。それに――」 すみれはだんとテーブルをたたいた。 「下着だけじゃないわよ。わたしの服なんて、お兄ちゃんのと違って、とってもでりけぇとなんだからね。一緒にされた日には……どんなひどいことになったか覚えてる?」 「だろ、その分俺が、いっつも、学校がえりに買い物いって、干した洗濯物片付けてやってんだ。あ、あと、シロの散歩なんかもな」 「まあね。でも、それは、お兄ちゃんが帰宅部でヒマだからじゃない?」 「そう、でもそれでおあいこだ」 兄は、にやにやと妹の顔を覗きこんだ。 「で、なにをやってくれるんだ?」 「で、でも、お兄ちゃんをたたき起こすって言うタイヘンな仕事だってあるじゃない」 「あ〜、でもな〜、お前。今朝起こしてくんなかったじゃないか」 「今朝はタイヘンだったんだからしょうがないでしょ。新聞読んだの?」 「いや」 「か〜、これだから近頃の若いもんは」 すみれはあきれたように苦笑いしながら、湯呑にお茶を注いだ。 「あっ、茶柱」 彼女はなんだかウレしくなって、思わずにやりとなった。 「なんだよ、おまえはばあさんか?」 「失礼ね〜、こんなうら若き乙女に向かって」 「どこが。お前のしゃべってることのどこを聞けば、ばあさんじゃないっていえるわけ?」 「全部がぜんぶ、はじける若さのかたまりよ」 「はっ。…」 なんだか話がずれそうになって、兄は、ぽんと、机をたたいた。 「おっと、それよりも、いったいなにがあったんだ」 「…従姉の真季ちゃんは知ってるわよね」 「あたりまえだろ」 「ん〜、その真季ちゃんの学校がなくなっちゃったのよ」 「なに?また地震でも起こったのか?」 「ううん」 「じゃ、ついに学校まで倒産か。不況だね〜」 「それが……ちがうのよ」 彼女は真剣な顔で兄を見つめた。 「学校が、文字通りなくなっちゃったのよ」 「はあ?」 「信じられないかもしれないけど……いいわ、実際見てみるほうが早い」 彼女はそういって、リモコンを操った。 「たぶん、この時間だから、どっかでやってるよね」 「おいおい、テレビに出るようなことなのか?」 「もう、昨日までの重大ニュースなんて吹っ飛ぶくらいなんだから」 「おいおい、まさか爆弾かなんかで吹っ飛んじまったとか?」 「もっとたちがわるいわ」 そのとき、洋平の目に、闇夜に照らし出された木の映像がうつった。 「あった。これよ」 「おい、木じゃねえか」 「いいから、だまって」 テレビでは、ちょうど、現場のレポーターにマイクが移ったところだった。 「え〜、こちら、下戸市立御所野台中学校前です。……もう、御所野台中学校跡前といっていいくらい、校舎はもう原型をとどめておりません」 そして、有名キャスターの映像が写る。初老もとうにすぎたそのキャスターは、風にそよぐ大木と、呆然と見上げる警官たちをバックに疲れたような顔でのぞんでいた。 こんなに大きくて、こんなに伝えがいのある仕事なんて、あの人の人生の中でもう二度とないんだろうな。 すみれは、その疲れきった顔を見つめながら熱いお茶をすすった。 茶柱は、倒れていた。 「警察からの正式な発表はありません。おそらく、警察にもなにが起こっているのかは把握できていないのでしょう。……いや、むしろ把握したくもないのかもしれません。不幸にも、目に見える事実は、信じられないくらいにごく単純なのです。そう、――」 食い入るように、テレビ画面を見つめる。 兄は、ふだんスタジオでニュース番組の司会をしているほどの彼が出てきたことで、よっぽど彼の好奇心を呼び起こすようなことがあったんだと、即座に理解した。 「ただ、学校があったところに木が生えている。ただ、それだけなのです!」 「はあ?」 「ご覧ください」 キャスターは、フリップを取り出して説明し始めた 「これが学校の校舎のあったところです。そして、これが、」 ペラッと、その上にフィルムをかぶせる。フィルムには、大きい円が描かれていた。 「これが、木の大きさです。実に大きな木です。そう、この大きな木が、学校のあったところに、突如出現したのです!」 「はあ?」 「まったく、常識では考えられません。しかし、事実なのです!」 そして、傍らに白髪の老人を招きよせた。 「植物学で世界的に有名な先生に来ていただきました。彼は、警察の依頼でこの植物の調査をなさっています。それでは先生。よろしくお願いします」 「よろしく」 老人は疲れきったような笑みを見せた。 「では、先生、この木はいったいどういうものなのでしょう」 「いやいや、恥ずかしながら、これは、私もはじめて見るものなんです」 「ほう」 「いやいや、私も新聞を開いた時には正気かと思いましたがね。いや、私の教え子が下戸大学におりましてな、彼が、この木を調査しておったわけですが、いやあ、その木は本当で、しかも、見たこともない木だと。面白そうだから、先生もいかがですかというのですわ。いや、よい弟子は持つものですね。それで私は植物学者としての好奇心に抗いきれず、単身新幹線に飛び乗ったわけです」 「は、はあ。それで、先生。この木は?」 「まず、このフリップを見てください」 「はあ、何ですか?これは」 「あの木、もう、木といっていいのかもわからんのですが、あれの葉の表皮細胞の図です」 「ほう、あ、でもこれは」 「ええ、核がありません。いや、そう、核とは、細胞の中で遺伝子の収まっとるところですが、それが、どうやっても見当たらんのです」 「それは……どういうことなんですか?」 「いやいや、ただ、わたしたちのところには、世界数万種の植物の遺伝子データがそろっておりましてな」 「はあ」 「それと照合してみる前に、私の弟子がちょっと細胞を覗いてみたんですよ」 「それはまたどうして?」 「いや、あの木の葉ときたら、のこぎりを持ってしても切り落とせないのだそうでね。しかたなく、表面をやすりで削り取ってしらべたそうなんですが、それで、いったいこいつは、どんな構造になっているのかと、覗いたらしいんですわ。いや、それが世紀の大発見でしてね、見たこともないような細胞構造なわけなのです。それで、弟子が私を呼んだわけですな。こりゃ、ただ事ではないと」 「はあ、でも、やすりで削り取るとは乱暴ですね」 「いや、わたしもそう思ったんですが、あ、きみ、あれをここに」 そういって、植物学の権威は傍らの人に、なにかをいいつけた。 「なんですか?」 「いや、そうこうしているうちに、葉が数枚ひらひらと落ちてきましてな。それを研究所に回しとったんですが、一枚持ってきました」 「それはどうも」 「いやいや。それで、不思議なことに、多少の苦労はしましたが、今度は上手く試料がとれたのですよ。それで、顕微鏡を覗いたのですが、ないんですね。電子顕微鏡も借りたのですが、これまた、出てくるわ出てくるわ。見たこともない妙な構造がぞろぞろぞろぞろ出てくるんです」 「つまり、これは、既知の植物ではないと?」 「植物…もしかしたら、生物であるかも怪しいですね。いや、というより、これは、今まで知られてきた生き物たちが通ってきた進化の道とは、べつのところからきたとでもいうようなものでしてね。それほど、われわれの知っておる生物というものの構造とはちがっとるのです」 「ほう。では、これは、まさか、地球外からの?」 「こうも違いを見せつけられてはそう考えるのも自然といえますね。――いやいや、もしかしたら、もちろん、何らかの突然変異かもしれませんし、そう、地中に眠っていた植物の種が何らかの外的作用を受けながら発芽したのかもしれません」 「とりあえず、新種の生物であることは間違いないと?」 「いや、それは間違いないでしょう。こんなのが他で見つかっていれば、私の耳にも当然入っているはずです」 「では、どうして突然こんなに成長してしまったのでしょう?」 「それが難しいところでしてね、物理的に考えて、校舎の下ででも発芽したものが、数分のうちに大木になっている。これはありえんことですわ」 「ほう。しかし、近隣の住民の証言によれば、七時すぎの地震のあと、外に出てみると木が生えていたということです。それに、ある学校の職員が六時半に学校を出たときには、まだ学校は建っていたという話ですが」 「いや、しかし、おおよそ三十分の間に、物はそんなに大きくなったりせんものなんです」 「しかも、不思議なことに、植物によって破壊されたはずの校舎の跡がどこにも見当たっていません。中にいたはずの中学生たちも、今だ行方が知れません」 「いや、もう、そこまでくると我々の専門外ですな」 「……そうですか。どうもありがとうございました」 「いやいや。お役にたてませんで」 そういって、テレビの中の老人はふかぶかと頭を下げた。
「おい、なんだよ、これは」 「だから真季ちゃんの行ってた学校がなくなっちゃったのよ」 「これが、真季ちゃんとこの学校だってのか!?」 「御所野台中学。聞き覚えあるでしょ」 「あ、ああ」 「わたしも、気になって電話したんだけど。やっぱりだった」 「で、真季ちゃんは大丈夫だったのか?」 「ええ。たまたまそのとき、校舎の外にいたんだって。ちょっと怪我はしたみたいだけど、たいしたことじゃないって」 「そうか〜」 「でも、行方不明の子って、みんな真季ちゃんの同級生なんだって」 「うわ〜たいへんだろ〜な。いろんなのがくるだろ」 「真季ちゃんたちが偶然助かったってこと、正式には発表されてないんだけど、どこから聞いたんだかたくさん報道の人がやってきて、もう真季ちゃんたち、家から出られないんだって」 「たいへんだ。でも、ま、助かったのか」 「もう、クラスメートは行方不明なのよ」 「行方不明なのは、警察が捜してるんだろ?だったら、生き残ったやつにほっとしてやってもいいだろ」 そして、兄は、ぽつんといった。 「さすがに手放しでは喜べないけどさ」
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