六月の雨に2

   

 

  「は〜」

  雨は人の心を憂鬱にさせるのだろうか。床にごろんところがっていた彼は、ときおり自分が、そんな彼女をそっと横目で見つめていることに気がついて、またなんともいえず痛々しい気分になった。

  部室はもとより、この小さな木造二階建てのどこをさがしても自分たち以外には人がいないというのに、その片割れがこんなにも憂いに満ちた表情で流れ落ちる雨を眺めているのだからしかたがないといえばしかたがない。しかも、相手が彼の幼なじみ。もちろんただの「お友達」というんだから、痛々しさはそのくらいでとどまるはずもなかった。

  むかしはもうちょっと、なにかあったはずなんだけどなあ。

  彼はそんなことを考えながら、そば、手を伸ばせばとどくほどの距離にいる彼女をそっと眺めていた。

  今日は来るはずのない、「仲間」を待ちながら。

 

 

 

  ◇ ◇

 

 

  文化系サークルの集まる「丘の上の小さな家」は、過去も、そして現在も、彼らだけのたまり場だった。

  もともとここには、数学と化・物理・生物・天文の自然科学系サークル、写真部・園芸部の六団体が同居していたという。

  ところが、近年の少子化、受験戦争の激化による部員減と、それにともなう廃部の危機に、同じ建物というよしみで部員を貸し借りしていたところ、ついに貸し借りの域を越えてしまったというか、それぞれの部への執着の強さのせいというか。また、玄関とお勝手の扉以外は、みな、こわれて開かないか、鍵がかからないかしているせいで、いつの頃やらか、たがいの垣根がなくなってしまったとか。いろいろな説はあるのだが、要は、いつのころからか、百パーセント部員を同じくするようになってしまったというだけのことなのである。

  現在、帳簿上はどれも立派な部として活動しているのだが、ふだん部屋はただひとつ、二階の奥の大部屋しか使われていない。そして、すでに三年が引退してしまっているこの時期、ここを使っているのはほぼ一年の彼らだけだった。

  ひたひたとあまもりがバケツの中にすいこまれていくのをききながら、彼――藤原裕志はぼーと天井の小さな粒をみあげていた。

 「は〜」

  窓際で、外の雨を見つめていた彼女は、今日になって何度目になるだろう、また大きなため息をついた。

  あかりのきれかかった部屋は、ばりばりという雨音にあわせて、ついたりきえたりをくりかえす。

 「あ〜もう、ね〜ちゃん。うっと〜し〜ぞ」

  あまりにも息苦しいその雰囲気に、彼はついにねをあげた。がばっと起き上がって、幼なじみの彼女――茉莉を見つめる。

 「なんかやなことでもあったんかよ」

 「な〜んにも。どうせわたしは、と〜ってもうっとうしい女ですから。」

  彼女のくちびるが、はきすてるように言葉をつむぎだす。

 「あ〜もうなんだよ。じめじめじめじめと。らしくないなあ」

  ああ、もう。ぜったいらしくない。

  見ているのがつらくなってくる。

 「こんなもんよ」

 「え〜?あ、」

  ぴんと頭の中にひらめくものがある。

  そう、

 「生理?」

  あ。

  そういって、いつもしまったって思う。

  なんたって茉莉のひきつりが、うすぐらい明かりの下でもよくわかるから。

  あ〜。どうして俺はいつも……

 「あんたって、ほんと〜に」

  そうして彼女は大きく息を吸い込む。

 

 「最っ低!」

 

 「う〜ん。」

  部屋をおいだされた彼は、もとは居間だったろう一階の一室で、やっぱりごろごろしていた。

 「ね〜ちゃんはいつも、この時期にヘンになるんだよな〜」

  たしかにもともとヘンではあるんだけど。

  彼は、彼女の気分でもうつったのだろうか。ふうとため息をはいて寝返りをうった。

 「あ」

  そのひとみが、戸口にとまる。

  そこには一人の色白で髪の長い少女が佇んでいた。

 「吉岡さん」彼は、のそのそと起きあがった。

  彼女――吉岡瑞希は、だまってそっと、そんな彼のそばに腰をおろした。

  そして、ぽつんと一言。

  彼には痛い一言。

 「また、おいだされたの?」

  静かな、でも、さみしい声。

 「え、あ、うん」

 「なんか、うえ、あがったらね。とても、声、かけられるような感じじゃなかったから」

 「ああ」

 「なにか、あったの?」

  どこか遠くを見るような目で彼女は言った。

 「ああ、また、俺の失言」

  瑞希はふりむいてじっと彼を見つめた。

  非難。息苦しいそのまなざしに、彼はいいわけめいたような口調でうったえた。

 「最近ずっとああなんだよ」

  なんで俺が

 「なんか、どこかきりきりしてるというか」

 「ふ〜ん」

  沈黙。

 「でも、なんか、らしくないよね、あれは」

  瑞希はぽつり、ぽつりとつぶやいた。

 「ああ。」

 「なんだかわかんないんだけど、この時期になると、毎年ああなんだよね」

 「まいとし」

 「ああ」

 「なにか、いやな思い出でもあるの?」

 「さ、さあ」

  そう、あれは俺の知らない彼女。

  ずっと、知らないことなんてないっておもっていたのに。

  今まで気付きもしなかった「知らないこと」が、荒波となってうちつけてくる。

 「ふ〜ん」

  瑞希は、視線を外して正面を向いた。

 「ふ〜ん」

 と声にだしながら、彼女は自分のひざにもたれかかった。

 「そうなんだ」

 「でも、ほんとになにもないのかなあ」

 

  なんで、こんなに不安なんだろう。

 

  典型的とも、いわゆるよくお話に出てくるような幼なじみとも違った二人。

  物心つくにしたがって離れていくこともなく、『好き』という言葉を交わしたこともない二人。

  どうしてこうも中途半端なんだろう。

  茉莉のことを想うたび、彼はそういうキモチに打ちひしがれる。

 

  茉莉のいない日々なんて

 

  彼は知っていた。

  もう、二人は『高校生』なんだということを。

  あと、二年ほどで、こんなふうにあえなくなるということも。

  彼女のユメは、この小さな街にはない。

  そのことをいたいほど感じていた。

  そして、彼がいくらがんばったところで、その道まではついていけないだろうことも。

 

  それを想う時、自分の無力さに彼はいつもいらだつのだった。

  どうしようもないほどの身体の疼きがとまらなくなるのだ。

 

  だん

 

  いらだちが、身を痛めつけさせる。

 「…」

  無言。

  そして、ぽつりと

 「藤原くん」

  瑞希がつぶやいた。

 「ん」

 「他のみんなは、来ないの?」

 「ああ、放課後すぐ来て、ちょっとしゃべってから帰ったよ」

 「ふ〜ん」

 「吉岡さんは、どうしたの?」

 「ん?」

 「今日、遅かったじゃない?」

 「うん。掃除」

 「長かったんだね」

 「先生がね」

 「そうなの?」

 「そういうとこには厳しい人だから」

 「ふ〜ん」

  三組の…柳楽先生の顔を思い浮かべる。

  あの、神経質そうな顔つき。ぴしっとのびた背筋。

 「たいへんだね」

 「いつものことよ」

  こともなげにいう。

 

  いつもおもう。

  吉岡さんは、とても強い人だと。

  まだあって三ヶ月ほどしかたたないけど、なんとなく、そう思う。

  それはなぜだか、彼にはわからなかった。

 

 「ねえ」

  瑞希はぽつんと、ひとりごとのようにつぶやいた。

 「…ん?」

 「でも、ぜったいなにか…あるよね」

  ぽたりぽたりと、雨垂れが時を刻んでいく。

  六月、この雨の中で、彼女にいったいなにがあったんだろう。

  たぶんいまごろ、おなじように思いにふけっているだろう「おさななじみ」の少女。そのの姿を天井ごしに見つめながら、彼は、記憶の海にさまよいだした。

 

  ↑↓ ↑↓

 

  彼は、つらそうにだまっていた。

  しんけん、なんだ

  瑞希は、かける言葉をさがしながら、すいとたちあがった。

  ぴくっと、空気がゆれる。

  別に、どこにも行かないよ。

  彼女はふらっと窓のほうに向った。

  湿ったたたみの冷たさが、くつしたのむこうから伝わってくる。

  ふう、

  ためいき、うつっちゃった

  彼女は、手にもった本をそっと開いた。

 

  うん。ぜったい。

 

 「たぶんね」

  …たぶんね

  ぴんとはった、空気。

  息をのむおと。

 「うん」

  かたりかけるように、ただひとりつぶやくように

  彼女は語りはじめた。

 「藤原くんって、意外と、繊細なんだね」

  不満げな視線。

  彼女はそれをかるく流して続けた。

 「なんか、いつも、余計なことばっかりいってるから」

  彼女は、そっとひとみをとじる。

 「…もっとずぶといのかっておもってた」

  なによ…そのいいかた

 

  そして、裕志が口をひらく。

 「…」

 「うん」

  言葉にならない、会話。

  でも、なんとなく、わかる。

 「でもさ、ほんとにそうなりたいときに、『いつもの自分』でいたいのに」

 「…そんなときにかぎってさ、よわきなじぶんって、おきてくるんだよね」

  彼女は降りしきる雨をみつめて、つぶやいた。

 「そんなのってさ…サイって〜だよね」

  窓にうつる自分の姿。

  わたしはいま、どんな顔をしているんだろう。

  そして、彼も

 「『いつもの』って、やなことばだよね」

  たぶん、今、一番それをおもってるのは、彼。

 「ちょっと、みえてないから」

 「ほんとのあたしが」

  あなたも、でしょ

 「たぶん、わかんないんだよね」

 「きっと」

 「だれにも」

  くすっとわらう

 「そんなんだったら、この世のうた詩も、小説も。なんにもやってらんないよね」

  もどかしいわたし

 「言葉なんか要らないなんて、ウソだよ。」

 「だって、ことばでしか、わかってあげられないんだもの、彼女のウソもほんとう真実も」

  …

 「だって、ひとって、どこまでも同じなのに、どこまでもいっても、違うんだもの」

 「なんにもしてないのに、わかってあげようなんてさ、むしがよすぎるよね」

 「…ありがとう」

  裕志は、ぼそっとつぶやいた。

  よかった…

 「でも、俺は」

 「なにか、できることって、あるよね、ぜったい」

 

 「…うん」

 

 

  ◇ ◇

 

 

 

  そのこたえは、たぶん、ここにあるから

 

 

 

  ◇ ◇

 

 

  あめのなかをかけよる、おと。

 

  ぱしゃぱしゃと水をはねて、

 

  そう、いまふりむけば、

 

 「あ」

 

  そこには、彼女がたたずんでいる。

 

  …雨に、ぬれながら

 

 「おい」

 

 「ううん。いいの。」

 

  そういって、ちょっとうつむく

 

 

  ほら

 

 

 

 

 

 

 「ありがとね」

 

  それより『しあわせ』なお返しなんて、しらないから。

 

 (おわり)

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