窓の外は今日も雨だった。 樋の継ぎ目から滴り落ちる雨粒は、バリバリとしてトタンのひさしに突き刺さる。 彼女はしめっぽい椅子をかたむけて、そんな窓の外に見入っていた。 なんとなくうすぐらい部屋の明かりで、窓には少女の面影だけがうつる。 無機質なファンの音に、彼女はそれでも心地よかった。 結局のところ彼女は、六時間目の自習を抜け出してこの誰もいない部室にやってきたわけだが、それでもくらい雨音だけではもの淋しかったのだ。 他の誰もと同じらしく、彼女にとって『数学の授業』ほど退屈で無意味なものはなかった。ましてや、その自習など論外だった。 彼女は手に持った本をいらないマウスの上にどさっと広げ、くろいディスプレイをのぞきこんだ。 Cでかかれた、ひとあたりの強い命令。 言葉使いには厳しいが、あくまで彼女の言葉通りに仕事をこなす忠実な下僕。 彼女はいきおいよく電源を切った。 雨粒は、激しく屋根にうちつける。 その音を聞きながら、彼女は、懐かしい歌を口ずさむ。 懐かしい映画のワンシーン。そして、郷愁。
背後から扉の音。 そして、弾むような明るい声がとんできた。 「ういーっす。」 「あ」 彼女はあたふたとふりかえった。 「ま、茉莉さん」 「う〜ん。なんだ、結局ここにいたんだ」 入ってきた少女――茉莉は、彼女の慌てようを見ないふりしてつづけた。 「気付いたら、もう帰っちゃってたんだから」 「ごめんなさい」 「ううん。べつにそんな…」 「あっ、それよりもさ。あの最後の問題って、解かった?」 「え、ええ」 「ほんと?」 茉莉は彼女のわきにいすをよせ、腰を下ろした。 「おせーて、おせーて?」 「え、うん、いいよ」 彼女は、キーボードをディスプレイの上にのせて机をあける。そして、傍らのプリンタ用紙を一枚千切ってそこにひろげた。 「えっとね、たしかあれは、そう、一旦使いやすい形に変形してから、この前やった公式をつかうの」 「使いやすい形って?」 「え〜っと、たしかこんな問題だったよね?」 彼女は、なれた手つきで数式をつづった。 「うん」 「じゃあ、ここをこうやってから、こういうふうに置くのよ」 「ほえ〜、すごい」 「…でも、もうこれは、気付くか気付かないかの世界だから」 彼女は首をちょっとかしげながら言いなおした。 「というか、一度やったかどうかよね」 「ふえ?瑞希ちゃんはやってたの?」 「うん。うちの中学って、そういうとこ早かったから。」 「ふうん。やっぱうちの中学ってイナカよね。」 茉莉はふうと溜め息をついた。 「ってより、わたしの数学がダメすぎるだけか?」 学校のせいにしちゃだめだよねって、茉莉ははずかしそうに笑った。 「でもさ、瑞希ちゃんって、うた、うまいよね」 「き、きいてたの?」 「きこえてきただけだけどね」 茉莉は、真っ赤になった彼女にきらきらとした目で応えた。 「でも、すっごくすてきだった。」 そして、溜め息を一つ。 「わたしなんてさ、すっごく音痴だし、勉強もダメだし」 茉莉は、はきすてるようにつぶやいた。 「そんなこと」 「ううん、そうなのよ。」頑として言い張る。 「そうだとしてもさ、」 「茉莉さんだって、私の持ってないもの、たくさん持ってるんだもん」
「おたがいさまよね」
ばらばらと言う雨音の中、茉莉は「ない」頭で考えていた。 瑞希ちゃんになくて、わたしにはあるもの。 彼女には――その彼女自身にとっては――当然のように解かっていなかった。 くるりと部屋を見渡せば、今日はどうも集まりが悪い。そもそも、いくら見まわしたところで、コンピュータにむかっている瑞希と、畳の上でごろごろしている藤原裕志しかいないことにかわりはない。 しょうがない、聞いてみるか。 なんとなく重い気を奮い立たせて、彼女はその藤原裕志に声をかけた。 「ねえ、藤原裕志。わたしにあって瑞希ちゃんにないものってなんだと思う?」 「吉岡さんにあって、ね〜ちゃんにないもの?」 藤原裕志はきょとんとして繰り返した。 「そんなの、ないよね。ほんと」 「茉莉さん、まだ、そんなこと考えてたの」 瑞希は椅子をくるりと回してふりかえった。 「うみゃ。やっぱしなんか気になるしぃ…」 「もう。たくさんあるよ。ね、藤原くん?」 「あっ、そうそう、あったあった!」 瑞希はほらねと、茉莉を見つめた。 「なんなの〜?藤原裕志」 「ああ、すっごいのがあるぞ」 「だからなんなのよ」 茉莉は苛立ったように藤原裕志をせかした。 「あらゆることに音痴だっていう才能!」 彼は胸を張って答えた。 「ふ、藤原裕志」 「なんで?」 茉莉の反応に、彼はきょとんとして尋ねた。 「なんでってねぇ」 「運動音痴、音楽音痴、方向音痴、…」 「あんた、わたしをバカにしてるわけ?」 「いや、ここまでそろえば、俺は才能だと思うね」 彼はしみじみとそう言ったものだ。 「まさか、瑞希ちゃんの言ったことって」 傷心の彼女は、おそるおそるふりかえって尋ねた。 「そ、そんなのじゃ、ないわよ」 瑞希は必死に笑いをこらえながら、なんとかそう応えた。 「じゃな〜に?おしえてよ」 「で、でも、そんなの、」 瑞希はぽっとほおを染めていった。 「なんだかはずかしいじゃない」 「あ、わかった」 ひざをぱんとたたいて、いきなり、藤原裕志が大声をあげた。 「なに!」 茉莉は、つっけんどんに――それでも――尋ねた。 「そ、そんなにきつくいわなくたって」 「だからなんなのよ」 「あ、あのね、」 「ええ!」 「ね〜ちゃんのほうが、ムネ大きい」 一瞬、部屋には冷たい風が流れた。
「最っ低ぇ!」
茉莉は机に向かい、ぽおっと窓の外を眺めていた。 彼女の部屋、その窓から見えるのは、雨にうたれ、でも、いや、それだからこそいきいきとしてかがやく「田園風景」と、この雨脚に白く霞んだ山並。なんとなく藤原裕志の家が見えているような気もするが、そんなものは知らない。 はあっと彼女は大きく溜め息をついた。 「いいところなんてあるのかな〜、わたしに」 彼女は落ち込んでいた。おまけに、楽しみに取っておいたケーキにまでカビは生えていたのだ。 しかも、妹の由莉にまで、 「はい?ね〜ちゃんのいいところ?」 「吉岡ちゃんになくって、ね〜ちゃんにあるものねぇ…」 「あの才色兼備、品行方正な吉岡ちゃんにあって…」 「ない、のね」 「はい?」 「だから、そんなものないわけねっ!」 「あたしにゃわからんよ、そんなの」 「もういい、訊いたあたしが馬鹿だったっ!」 「ええ〜?」 こんな調子であしらわれた。 なんだか茉莉は、気分が悪かった。そして、そんな自分に、もっと気分が悪かった。 結局、わたしって、毎年、そう、この梅雨が来るたび、あのケーキーと同じみたく、心のどこかにカビがはえてっちゃうのね。 この、梅雨が来るたびに。 彼女は修学旅行土産の「努力」な猿を指先でこづいた。 それが、「大人になる」ってことなのかなあ。 彼女はたちあがり、ベッドにぱたんと突っ伏した。 「ふゆ〜」 そして、ころんと仰向けになる。 「なれないことは、するものじゃないわね」 むにゅむにゅ。 「はあ。」 絶え間なくつづく、雨音。じめじめとまとわりついてくる空気。 彼女はけだるいまなざしで、のっそりと起き上がった。 「なんか、おちつかないわね」 彼女は、その空気を払いのけるかのように、乱れた裾を直して、大きくのびをした。
玄関のベルが鳴る。 でも、誰も出なかった。 「ん〜?母さんたち、そういえば、出かけるって言ってたっけ。…こんな日なのに」 しょうがないな〜と言いながら、彼女はのそのそと玄関に向かった。 「由莉。にしても由莉ねェ。どうせ暇なんだから出ればいいのに。」 こんなに気分の重い日は、やっぱり誰とも会いたくないな。茉莉は何度目かの溜め息を吐いて、外履きのスリッパに足を引っ掛けた。 そして、ノブに手をかけながら、彼女は覗き穴に目をつけた。 「げ、」 こんなときに、いちばん会いたくない藤原裕志の姿が目に飛び込んできたのだ。蛙の踏み潰されたような声も出る。 彼女はチェーンをかけ、恐る恐る扉を開いた。 「あんた……何しに来たの?」 「つれないなあ。みんなも来てるって言うのに。」 「はい?」 「だから、こんなものかけずに、ドア開いてくれよ。」 藤原裕志は気分悪そうに、ドアのチェーンをつっついた。 「そしたらわかるから」 「あ〜、また藤原ちゃん、茉莉姐に余計なこと言ったのね?」 「あっ、冴香もいるの?」 「う〜ん。みんないるよ。」 「そう、ちょっと待ってね。」 茉莉は、一旦扉をぱたんと締め、急いでチェーンを外した。 「あっ、ひどいっ!俺のときは外してくれなかったくせにっ!」 外から藤原裕志の声が聞こえる。 「おいおい、ゆうちゃん。よっぽど変なこと言ったのな〜?」 「なんだよ、貞弘。おまえもかよ。」 はあ、と大きな溜め息。 「どうしていつもそういうことになるんだ」 「あんたの行いが悪いからでしょ?ふだんから」 そんな冴香の声を聞きながら、茉莉はゆっくりと扉を空けた。 いろとりどりのかさが目に飛び込む。 「茉莉さん、おめでと〜」 「茉莉姐、おめでと〜」 口々の声。 「あの、な〜に?」 ついていけなかった茉莉は、ほやっとした表情を彼らにむけた。 「…ね〜ちゃんの誕生日に決まってんだろ。」 藤原裕志は、あきれたように応えた。 「え?」 「あたしの?」 「あたりまえだろ〜」 背後から由莉がゆっくりとやってきて、とまどう姉をあきれたようにながめた。 「ほんとね〜ちゃん、自分のことになると疎いんだから。」 「他人の誕生日とかは、まめに盛り上げるくせに、自分のになったら、家でごろごろしてるもん」 「んにゃん、自分の誕生日なんて、催促するもんじゃないでしょ。」 困ったものだというふうに、由莉は頭を振った。 「そ〜ゆ〜ふ〜に、肝心なとこ主張しないから、みんなが誕生日知らないって事になるんじゃないの。」 「べつに、わたしが言わなくたってね、みんながあんたの誕生日さえ知っとけば問題ないじゃない」 「いや、ちがうね」 藤原裕志が、口を挟んだ。 「誰かの誕生日が近づけば、ね〜ちゃんがはりきりだすだろ。」 「だからみんな、ね〜ちゃんが誕生日会ってはりきってるのを見て、もうすぐ誰かの誕生日があるんだなって思うわけよ。」 「なによ、それ」 「だから、ね〜ちゃんが騒いでないときには、誰の誕生日もないわけよ。」 「は〜うん。なんとなくわかった。」 彼女はほおに軽く手をあて、うんうんとうなずいた。 「でもさ、だからって、自分の誕生日を盛り上げるなんて、そんな寂しいことやってられないじゃない?」 「そりゃね。でも、」 由莉は言葉を強くしていった。 「だからこそ、みんな集まったんじゃない!」 「あっ」 茉莉は鋭く声を上げた。 「わかったのね?」 「うん。」 そしてふかぶかとお辞儀した。 大事なのはそんなことじゃなかったんだ 「あの、ごめんなさい。わたし、取り乱しちゃって」 言わなきゃいけないことは、そう、これだけだもの。 彼女はほおにかかった髪をかきあげ、 「みんな、ありがとね」 そう言ってまた、ごめんなさいってあやまった。 「うん」 由莉はにっこりと笑って、みんなを促した。 「こんなおバカな姉ですが、どうぞ皆さん祝ってやってください」 あんたもじゃない。 茉莉はてれくさそうに妹の頭をこつんと小突いた。
「そういえばさあ、茉莉姐と由莉ちゃんの誕生日祝うのって、どのくらいぶりだっけ?」 思い出したかのように、貞弘がこっそりと尋ねる。 「…幼稚園のさ、お誕生会以来じゃないの?」 そんな彼に、冴香はこくびをかしげ、そして、ちょっとうわむきかげんに答えた。 「えっ、そうなの?」 大きな声を上げたのは、瑞希。 「え、うん。」 ちょっと戸惑いながら、冴香は答えた。 「なにかさ、茉莉姐ってさ、自分の誕生日祝うのって、好きじゃないみたいなのよね」 瑞希は目をぱちくりとさせて、 「…ふうん」 と、ぎこちなくうなずいた。 そして、彼女は問いかけるように茉莉を見つめた。
茉莉は、なんとなく外の雨音を見つめていた。 楽しげに笑うその会話の隙間に、彼女はふとわきのプレゼントを見つめる。 「ね〜ちゃん、どんなんもらったの?」 「えっ?」 不意をつかれたように、茉莉はぴくんと飛びあがった。 「あ、うん。」 「でもさ、こういうのって。よくわかんないんだけど、今、あけていいものなのかな?」 「いいよ、茉莉姐」 貞弘が言った。 「喜んでくれるといいんだけど」 冴香もにっこりと微笑む。 「うん、これは、冴ちゃんの?」 茉莉は、ころんと転がっていたひときわ大きい包みを指差した。 「ええ」 彼女は、そっと、そのおおきな包みをほどいた。茶色い毛並みが顔を出す。 「きゃん。かわいい〜」 彼女はそのぬいぐるみをきゅううと抱きしめた。 「冴ちゃん、ありがと〜」 「茉莉姐、好きだっていってたもんね」 「覚えててくれたんだ」 「うん」 そして今度は、手のひらサイズの包み。 「あっ、これは?」 「あ、わたし」 「あん、瑞希ちゃん」 「なんだろ〜?」 中から出てきたのは、少し大人びた感じのする、黒いシステム手帳。 「茉莉さん今使ってるの、ぼろぼろだし、なんだか残り少ないみたいだったから、」 「うん。あれってたしか小五以来だから」 そのころってあんまり使わなかったもんね。彼女はそう笑った。 「もう残りないし、そろそろ代えようかなって思ってたんだ。」 「ありがとう」 「どういたしまして…」 茉莉は、そうてれる瑞希に、そういえばと尋ねた。 「瑞希ちゃんて、わたしの誕生日どうやって知ってくれたの?」 「うん?」 彼女はそっと後ろをかえりみた。 「あのね、藤原くんが教えてくれたの。」 「え、藤原裕志が」 なんか、そっか〜って気分になって、茉莉はくるりと部屋を見まわした。 「あれ?裕志は?」 いない。 「あ〜、裕志なら、用事あるってさ」 「なんの用事だかね〜」 …フクザツな気分。
ちょうどそのとき、空がぱあっと光った。 「にゃっ!」 茉莉は、傍らの妹に飛びついた。 「ね〜ちゃんあいかわらず、よわいのな、かみなり」 「わ、わるかったわね」 「でも、もう、梅雨もおわりですね。」 瑞希がぽつんとつぶやいた。
そして、雷鳴がやってきた。 (おわり)
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