「あたしゃ辛いの嫌いだっつってんでしょ!」 わたしはばんと、床をたたいた。 やっと手に入ったばかりのコタツは、そうそうぶん殴るわけにもいかなかい。 鈍い音とともに、わたしはいっそうまゆをしかめた。 そもそも、その真新しいコタツの上には、小亀の上の親亀のような、そんな奇妙な不釣合いさをもって、コンロと土なべがなかよく積み重なっているのだ。これを倒してしまったら、世にも陰鬱な夜が待っていることだろう。 ひりひりしそうな目で、不思議そうに見つめるあいつをにらみかえした。 風邪で寝こんでたところに、大きな荷物抱えて、めずらしく見舞いなんかに来たと思ったら、とつぜん「夕飯作るから」だ。 ちょっとは喜んでやったってのに…こいつときたら ちょっと目を離したその隙に、あのおいしそうに煮詰まっていたなべの中身は、まっかにそまっているわけだ。 「なに、あんた、このあたしにケンカ売りたいわけ?」 「好き嫌いをいわない」 おたまで汁をすくったあいつは、しれっとしてわたしの鼻先に取り皿を突き出す。 にくったらしいったらない。 「体が弱ってたら、辛いの食べて汗を流すのが一番なんだって、そんなことやってたよ」 「そこまでつらい思いして、どうするわけよ?」 「いいから。いいから」 ヤツはそういいながら、わたしの頭をおさえ、無理やり注ぎ込もうとする。 楽しんでる、絶対、楽しんでる。 あいつをにらむわたしの目元は、じんわりゆっくりあつくなっていく。 「ひゃ、ひゃみぇ…」 そのにじむ視界のどまんなかで、ヤツはにっこりとほくそえんだ。 そして近づき、わたしに頬を寄せてくる。 「コタツ、やっと買ったんだよね…」 みみもとでぼそっと彼の声がつぶやく。 「ふひ、ふひょおふょ」 あついものが、口の中になだれ込む。
……辛い。
わたしはネコジタじゃないんだけれど、この焼け付くような感覚は…… 頭の先にまでのぼってくるような、そんなつ〜んとした刺激に涙がぼろぼろとこぼれ出す。 「ひゃ、ひゃんた、にゃ、にゃにゅをひれはの?ほれ」 言葉がうまく形にならない。 「げんきがでるもの」 その満面の笑みに、ひりひりとした口元をおさえながら、わたしは思わず、ずずっとうしろに逃れていた。 「どうしたの?おいしいじゃない」 不思議そうな顔をして、ヤツはその汁をすする。 「こんなの、ただのなべじゃん。……うん、われながら、実にいいでき」 「むゅぃ、むゅぃじゅ〜(み、みず〜)」 あとからあとから、じんじんと体中にしみわたっていくその辛さは、わたしの体の自由をうばって、つかんで、ゆさぶって、そして、はなさない。 「みず?そんなに辛いの?まじで?」 ふしぎそうに尋ねるあいつの顔にわたしはあらん限りの言葉をぶつけた。 「ふひゃふひゃふひゃ……」 ――やっぱり、形にはならなかったんだけど。
◇ ◇
「わるかったよ」 そう何回いっただろうか。 もっとも、いったんへそを曲げたら、てこでも動かないのはいつものことだし、そもそも、親切でやってるんだから、そこまで怒らなくても、とは思うのだ。でも、まあ、ちょっと面白かったのも事実だけど… いろんな思いが一緒になって、結局どうしていいかもわからないまま、僕はぽぉいっと部屋を放りだされた。 「あああ〜」 いつもながら、時折くるう歯車のそのかみ合わせは、ふたりを《穏やかな日々》に近づけさせまいとしているかのようだ。 ――あたりまえだけど 結局、生まれも育ちも好みだって、なにからなにまで違うんだから、ぴったりなんて、ユメのまた夢なのである。 ――そんなことはわかりきっているんだ。 でも、わかりきっていたとしても、その隙間の広さに呆然とすることもある。 ――面に出さなくともだ。 なんだか最近そのかみ合わせが悪いのは、歯車の歯のせいなのか、二つの軸があまりにもはやく近づきすぎたせいなのか、いや、 ――とおいな。 秋晴れの空は澄み渡って、でも、秋の陽射しはアパートに隠れていて……なんだかとても肌寒く思えた。
数えで十五歳を少し越えた頃、いや、もう少し前だったろうか、僕がボクでなくなっていたことに気がついたのは。 世間であの年頃がアブナイといわれて久しいが、結局昔だって今だってちっとも変わっていのだとどこかの誰かがいっていた。 ただ、アブナイかどうかはともかく、僕がボクではなかったという事実だけは、僕の中でどっかりと腰を下ろしている――それだけなのである。 思春期で自己が確立していないせいだとかとか、そういうことをいう人もなかにはあった。が、結局のところ、「仮面」は誰だって少なからずかぶっているということがわかるころになると、僕は少しほっとした気持ちになったことは今でもはっきりと覚えている。 そして――もちろん――すこし悲しくなった。 僕がそれまで考えてもいなかった「大学受験」を、やってみようかと思えるようになったのも、もしかしたらそのころかもしれない。 たぶんとてつもなく遅かったのだろうが、僕がようやく予備校へと通うようになったのもたしかそのころだったのだろう。 今になって思えば、あの悲しさのせいで、僕はここにいるのかもしれない。
あれから数年、結局なにも変わらないまま、短かった大学生活、そして、とてつもなく長かった学生生活もようやく終わろうとしているのだ。 ふうと、思わずため息がこぼれおちる。 いつから、ボクはこうなったんだろう。 こたえは、わかっりきっているような気もした。 でも、それでも考えずにいられないのは、たぶん、今のボクがとてもバカで、そして悲しいからだろう。 とおいのは、僕と彼女の距離なのか、ボクと彼女の距離なのか。 ――結局、どちらもなのだろうけど。
ボクはまだ、扉の前に立ちすくんだまま、呆然としているんだ。
◇ ◇
せまい下宿には、わたしとなべだけがぽつんと残されていた。 「……どうしよう……」 わたしは、とても食べられそうにないそのなべの中身を眺めながら、いったいどうしたらいいものだろうか――考えていた。 「どうしよう」 ごろんと床に転がっても、ひんやりとしたフローリングの感触しかかえってこない。 あつい 火照った頬に髪の毛がはりついていて、それを指でかきあげた。 ――熱は当分ひきそうもない。
「ばか……」
つぶやきをかき消すかのように、また一つため息がこぼれおちる。 ベッドからだらしなく垂れた布団を引きずって、わたしはそれにくるまった。 「さむい……」
目の前には、壊れた電話が無造作にころがっていた。
「ばか」
わたしは、もう一度つぶやいた。
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